
キヤノンのインクジェットは、インク入りの注射器に熱いはんだごてが触れて生まれた
キヤノンのインクジェットは、はんだごての偶然から生まれた
もくじ
1970年代半ばのキヤノン。研究者たちは、インクを細かいしずくにして紙に飛ばす「インクジェット」の研究を続けていました。ある日の実験中、インクを詰めた注射器の針に、熱したはんだごてが偶然触れました。はんだごては、先が熱くなる道具です。はんだ(溶けやすい金属)を溶かして、電線などをつなぐのに使います。
その瞬間、針の先からインクのしずくが勢いよく飛び出しました。キヤノンは、この偶然をきっかけに実験を重ね、熱でインクを飛ばす独自の技術を作りあげました。キヤノンは、1977年に出した特許が、その後のインクジェットプリンターのもとになった、と書いています。
しかも同じころ、太平洋の向こうのアメリカでも、別の会社が同じ方法を思いついていました。この記事では、まずキヤノンの偶然から商品が生まれるまでを見ます。次に、アメリカのHP(ヒューレット・パッカード)で起きたことを紹介します。最後に、泡でインクを飛ばすしくみを、特許とHPの技術雑誌で確かめます。
01キヤノンの研究者は、熱ではない方法でインクを押し出そうとしていた
インクジェットは、インクのしずくを紙に飛ばして印刷するしくみです。しずくは、とても細いノズル(インクの出口)から飛び出します。インクを押し出す力をどう作るかが、研究の中心でした。
アメリカの雑誌MITテクノロジーレビューが、2001年にこのころの話を書いています。1970年代後半、インクジェットを研究する会社はいくつもありました。キヤノンのチームも最初は、ほかの会社と同じように、圧力でインクを押し出そうとしていました。電気を流すと形が変わる材料でノズルを作り、その変形でインクを吸いこんでは押し出す計画だったといいます。
02熱いはんだごてが、注射器の中のインクを沸とうさせた
キヤノンの計画を変えたのは、注射器とはんだごての偶然でした。インクを詰めた注射器の針に、熱したはんだごてが触れ、針先からインクのしずくが飛び出したのです。
同じMITテクノロジーレビューの記事は、このとき起きたことをこう説明しています。熱い道具がインクを沸とうさせた。できた泡がふくらむ力で、インクが注射器の外へ押し出された。そしてキヤノンの遠藤一郎が、熱を使えばもっとよい方法になるかもしれない、と気づいたのです。記事によると、キヤノンはこの出来事のすぐあと、1977年に、それまでの圧力の方式の計画をやめました。キヤノン自身は、この出来事を、1970年代半ばから続けていた研究の中の話として紹介しています。遠藤が卒業した東京工業大学(今の東京科学大学)も、資料でこの話を紹介しています。熱いはんだごてが注射器の針に触れ、インクが飛び出したのを見て、遠藤がこの方式を発明した、という話です。
03キヤノンは1977年に特許を出願し、8年後にプリンターを発売した
キヤノンは1977年10月3日に、熱でインクを飛ばす技術の基本特許を出願しました。基本特許とは、その技術のいちばんもとになる特許のことです。キヤノンは、これを世界で初めてのサーマルインクジェット(熱でインクを飛ばす方式)の基本特許だとしています。
この方式は「バブルジェット」と名づけられました。英語の bubble(泡)と jet(勢いよく噴き出すこと)を組み合わせた名前です。キヤノンは、1977年の出願をもとにしたアメリカの特許も取りました。その発明者には、遠藤一郎のほか4人の名前がならんでいます。
商品になるまでには、時間がかかりました。最初のバブルジェットのプリンター「BJ-80」が発売されたのは、1985年12月です。基本特許の出願から、8年がたっていました。1994年には、この技術の基本となる特許の1つが、全国発明表彰という賞で一番上の「恩賜発明賞」を受けています。

04アメリカのHPでも、1978年に同じ考えが生まれていた
キヤノンの外でも、同じ考えが育っていました。HPには「ヒューレット・パッカード・ジャーナル」という技術雑誌がありました。その1984年3月号に、HPの研究者ドナルド・ハモンドが、いきさつを書いています。
1978年の秋、HPの研究所で、ジョン・ヴォート(John Vaught)が新しい印刷の方法を探していました。最初は、電気でインクを分解したり熱したりして、気体の圧力でしずくを飛ばす方法を試しました。この方法は動きましたが、失敗が多すぎました。そこでヴォートは、小さな電気抵抗を使う方法を考えました。電気抵抗は、電流を流すと熱くなる部品です。これに100万分の数秒だけ電流を流して熱し、泡でインクを飛ばすのです。この方法は、1979年3月に初めて実演されました。
HPのコーバリス事業所で作られた最初の試作品は、手作りでした。1985年5月号の記事によると、インクの出口の穴は、薄い真ちゅうの板に手で開けたものです。穴を開けるのに使ったのは、ある技術者の妻から借りたミシン針でした。この試作品は、万年筆のインクを空中に数インチ(1インチは約2.5cm)も飛ばし、まわりの人たちを喜ばせたそうです。
05HPは、キヤノンが先だったと知って、協力を選んだ
1981年9月のことです。HPは、日本のキヤノンでも同じ考えの開発が進んでいると知りました。ハモンドの記事は、キヤノンの遠藤一郎がこの考えを別に思いつき、しかも発明した日はHPより早かった、と書いています。
HPには、いくつかの道がありました。その中で一番よいとHPが考えたのは、キヤノンと一緒に進めることでした。2社には、すでに深いつながりがありました。HPはその数年前、レーザープリンターのような、電子写真方式のプリンターの技術をキヤノンから手に入れていたからです。2社は技術の開発で協力することを決め、技術の情報の交換は1983年に始まりました。
HPは1984年3月、熱でインクを飛ばすプリンター「シンクジェット」を発表しました。ハモンドは、この経験からこう書いています。技術だけで世の中に大きく役立てることは、めったにない。会社どうしの関係をうまくまとめることが、技術を商品にして世に出せるかどうかを大きく左右することもある、と。
深掘り講義
ここから先は、もう一段深く。しくみ・史料・論争まで踏み込みます。
インクを飛ばした泡がしぼむと、新しいインクが入ってくる
キヤノンの遠藤一郎らのアメリカの特許は、しくみを次のように説明しています。インクの通り道の途中に、熱を加える部分があります。そこでインクに熱を加えると、インクの一部が一瞬で気体に変わり、泡ができます。その力で、出口の近くにあるインクが押し出され、しずくになって紙のほうへ飛んでいきます。
できた泡は、すぐに縮んで消えます。泡が縮むと、そのぶん通り道に空きができます。その空きをうめるように、新しいインクが通り道に入ってきます。つまり、泡がふくらむとインクが飛び、泡がしぼむとインクが補われます。この動きを何度もくり返して、点を打ち続けるのです。
インクは、普通の沸とうよりずっと熱くなってから泡になる
HPの技術雑誌の1985年5月号には、HPの研究者たちが、泡ができる様子を調べた報告がのっています。報告によると、この泡は、やかんの湯がわくときの、普通の沸とうとは違います。
沸点とは、液体が沸とうし始める温度です(水なら100℃)。普通の沸とうでは、液体は沸点を数度こえるだけで泡になります。ところがインクジェットでは、ヒーターのすぐ近くだけが急に熱くなり、泡のもとになる場所もほとんどありません。そのため、インクは沸点をはるかに超えても液体のままでいます。これを「過熱」といいます。報告によると、シンクジェットのインクが液体のままでいられる温度の上限は、約330℃でした。ヒーターに電流を流す時間は、1回につき100万分の3〜6秒です。
ヒーターに触れたインクがこの上限の温度に近づいたときに泡ができると、毎回同じ速さ、同じ量のしずくが飛びます。逆に、ヒーターの表面に小さな傷やくぼみがあると、そこから早めに泡ができて、しずくの飛び方が不安定になります。HPの開発の多くは、この「早すぎる泡」をおさえる研究だった、と報告は書いています。
同じ発明が、日本とアメリカでほぼ同時に生まれた
ハモンドは記事の中で、多くの人が同じ大事な問題に取り組んでいると、離れた研究所で別々に同じ考えが生まれることはめずらしくない、と書いています。インクジェットはその例でした。キヤノンとHPは、海をはさんで、ほぼ同じころに「熱でインクに泡を作って飛ばす」方法にたどりついたのです。
ただし、キヤノンのきっかけは注射器とはんだごての偶然でした。HPのきっかけは、電気でインクを気体にする方法で、失敗が多すぎたことでした。出発点は違っても、たどりついた方法は同じだったことになります。なお、MITテクノロジーレビューによると、エプソンは熱を使わず、電気で形が変わる材料でインクを押し出すプリンターを作りました。キヤノンが最初に計画していたのと同じ考え方です。
特許の出願から最初のプリンターまで、8年の改良が続いた
キヤノンの記録は、はんだごての出来事を「偶然の産物」と呼んでいます。そのあと実験と検証を何度も重ね、ヒーターでインクを飛ばす技術ができました。基本特許を出したあとも改良を続け、1985年にやっと最初のプリンターを発売しました。
同じ大学の資料によると、遠藤は1983年から1985年まで、バブルジェットの開発チームのリーダーを務めました。発売のあとも改良は続きます。1990年には、印刷する部分とインクの入れ物を一体にした小さなカートリッジを使う、ノートの大きさのプリンターが出ました。1994年には、キヤノンによると家庭向けのプリンターで初めて、普通の紙にフルカラーで印刷できる機種が出ています。
06まとめ
キヤノンのバブルジェットは、1970年代、インクを詰めた注射器の針に熱いはんだごてが偶然触れ、インクが飛び出したことから生まれました。キヤノンは1977年10月3日に基本特許を出願し、1985年12月に最初のプリンター「BJ-80」を発売しました。
同じころ、アメリカのHPでも、ヴォートが熱で泡を作ってインクを飛ばす方法を思いついていました。HPはキヤノンのほうが先だったと知ると、キヤノンと協力する道を選びました。キヤノンやHPのインクジェットプリンターが動く音を聞いたら、「中では、ものすごい数の小さな泡がふくらんではしぼんでいる」と思い出してください。
人に話すなら、こう言おう
キヤノンのインクジェットって、インクを入れた注射器に熱いはんだごてがたまたま触れて、インクが飛び出したのが始まりなんだって。しかも同じころ、アメリカのHPも同じことを思いついていたらしいよ。
英語で読む
A Hot Tool, a Syringe, and a Jump of Ink
英文をタップすると、その文の訳が出ます。
In the middle of the 1970s, researchers at Canon in Japan were studying inkjet printing.1970年代半ば、日本のキヤノンの研究者たちは、インクジェット印刷を研究していました。 In an inkjet printer, tiny drops of ink fly from small holes onto paper.インクジェットプリンターでは、小さなインクのしずくが小さな穴から紙に飛びます。
One day, during an experiment, a hot soldering iron touched the needle of a syringe full of ink.ある日、実験中に、熱いはんだごてが、インクの入った注射器の針に触れました。 A soldering iron is a tool with a very hot tip.はんだごては、先がとても熱くなる道具です。 Suddenly, a drop of ink shot out of the needle.突然、針からインクのしずくが飛び出しました。 The heat boiled the ink, and a growing bubble pushed the ink out.熱がインクを沸とうさせ、ふくらむ泡がインクを押し出したのです。
A Canon researcher, Ichiro Endo, thought that heat might be a better way to move ink.キヤノンの研究者の遠藤一郎は、熱のほうがインクを動かすよい方法かもしれないと考えました。 Canon did many more tests.キヤノンはさらに多くの実験をしました。 On October 3, 1977, the company applied for a basic patent.1977年10月3日、会社は基本特許を出願しました。 The new method was named "Bubble Jet."その新しい方法は「バブルジェット」と名づけられました。 Canon's first Bubble Jet printer, the BJ-80, came out in 1985, eight years later.キヤノンの最初のバブルジェットプリンター、BJ-80は、8年後の1985年に発売されました。
Around the same time, a company in the United States had the same idea.同じころ、アメリカのある会社が同じ考えを持っていました。 In 1978, John Vaught at Hewlett-Packard, or HP, began to work on it.1978年、ヒューレット・パッカード(HP)のジョン・ヴォートが、それに取り組み始めました。 HP's first test model had a hole made with a sewing machine needle.HPの最初の試作品には、ミシン針で開けた穴がありました。 The needle was borrowed from an engineer's wife.その針は、ある技術者の妻から借りたものでした。
In September 1981, HP learned that Canon was working on the same idea.1981年9月、HPは、キヤノンが同じ考えに取り組んでいることを知りました。 Canon's invention date was earlier.キヤノンの発明の日付のほうが早かったのです。 HP thought that working with Canon was the best choice.HPは、キヤノンと一緒に進めるのが一番よいと考えました。 The two companies agreed to work together on the technology.2つの会社は、その技術で協力することに合意しました。
4択問題 Reading Quiz
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Q1What is this story mainly about?
この話は主に何についてのものですか。
正解:B How an accident led to a new way of printing
第2段落の偶然の出来事から、第3段落で特許とプリンターができるまでが話の中心なので、正解はB。Cのミシン針は第4段落の小さな話にすぎない。Dのような会社の大きさの話は本文にない。
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Q2When did Canon apply for the basic patent?
キヤノンが基本特許を出願したのはいつですか。
正解:D In 1977
第3段落3文目に「On October 3, 1977」とあるので、正解はD。1985年は最初のプリンターBJ-80が発売された年、1978年はHPのヴォートが研究を始めた年。
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Q3Why did ink shoot out of the needle?
針からインクが飛び出したのはなぜですか。
正解:C Heat made a bubble that pushed the ink.
第2段落最後の文に、熱がインクを沸とうさせ、ふくらむ泡がインクを押し出したとあるので、正解はC。Aのように人が押したとは書かれていない。
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Q4In paragraph 4, the word "borrowed" is closest in meaning to
第4段落の borrowed という語に最も意味が近いのはどれですか。
正解:A used for a short time and gave back later
borrow は「借りる」。第4段落で、針は技術者の妻から borrowed された、とあるので、しばらく使って返すという意味のAが正解。Bの「買った」は借りるとは違う。
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Q5What did HP do after it learned about Canon's work?
キヤノンの研究を知ったあと、HPは何をしましたか。
正解:B It agreed to work with Canon.
第5段落の最後の2文で、HPはキヤノンと一緒に進めるのが一番よいと考え、2社は技術で協力することに合意した、とあるので、正解はB。Cの裁判のことは本文に書かれていない。
重要語 Key Words(タップで裏返る)
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syringe名詞注射器
The nurse filled the syringe with medicine.
看護師は注射器に薬を入れた。
💡 発音は「スィリンジ」。針は needle。
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soldering iron名詞はんだごて
Be careful. The soldering iron is very hot.
気をつけて。はんだごてはとても熱いよ。
💡 solder は「はんだ」。iron はここでは「鉄」ではなく「熱する道具」の意味。
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drop名詞しずく、1滴
A drop of rain fell on my nose.
雨のしずくが1滴、私の鼻に落ちた。
💡 動詞では「落とす・落ちる」。a drop of ~で「~の1滴」。
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bubble名詞泡
The children made soap bubbles in the park.
子どもたちは公園でシャボン玉を作った。
💡 soap bubble で「シャボン玉」。bubble tea はタピオカ入りのお茶。
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boil動詞沸とうする、沸とうさせる
Water boils at 100 degrees.
水は100度で沸とうする。
💡 boiled egg で「ゆで卵」。
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patent名詞特許
She applied for a patent for her new tool.
彼女は新しい道具の特許を出願した。
💡 apply for a patent で「特許を出願する」。
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borrow動詞借りる
Can I borrow your pen?
あなたのペンを借りてもいいですか。
💡 lend は「貸す」。borrow と lend の向きに注意。
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invention名詞発明、発明品
The telephone was a great invention.
電話はすばらしい発明だった。
💡 動詞は invent(発明する)、人は inventor(発明者)。
SOURCES出典・ウラ取り
この記事の事実は、次の資料を実際に開いて確認しています(確認した事実 23件)。
- バブルジェット方式インクジェットプリンターの発売から30周年(キヤノン, 2015)global.canon
- プリンティング分野の歴史(キヤノン 知的財産)global.canon
- Endo, I. et al. US Patent 4,723,129 "Bubble jet recording method and apparatus..."(1988)patents.google.com
- Hammond, D. L. (1984) Viewpoints: Coping with Prior Invention, Hewlett-Packard Journal 35(3)hparchive.com
- Nielsen, N. J. / Allen, R. R. et al. (1985) ThinkJet 特集号, Hewlett-Packard Journal 36(5)hparchive.com
- Tiny Bubbles(MIT Technology Review, 2001)technologyreview.com
- 活躍する像情報OB 遠藤一郎 氏(Bubble Jet技術の発明)(東京工業大学 像情報工学研究施設。現・東京科学大学)first.iir.isct.ac.jp
公式ページで見てみよう
- プリンティング分野の歴史(キヤノン)global.canon
文章はすべて資料をもとに独自の言葉で書いています。画像はオリジナルのイメージです。誤りにお気づきの方は訂正窓口へ。
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