
「鎖国」という言葉は、1801年にドイツ人医師の本を訳したときに生まれた
「鎖国」は1801年の翻訳から生まれた言葉。
この判定の対象「鎖国という言葉は、江戸幕府が自分の政策につけた名前だ」
もくじ
1801年、長崎の志筑忠雄という人が、オランダ語の本の一部を日本語に訳し終えました。志筑は、その訳に『鎖国論』という題をつけました。
これが、「鎖国」という言葉の始まりです。江戸幕府がポルトガル人を追い出した1639年から、162年もあとのことでした。もとになったのは、日本に来たことのあるドイツ人の医者が書いた論文です。
つまり、「鎖国」は、江戸幕府が自分の政策につけた名前ではありません。この記事では、まず『鎖国論』がどうやって生まれたのかを見ます。次に、もとの論文に何が書かれていたのかを紹介します。最後に、2017年に、学校の授業の基準となる国の決まりから、この言葉が消えかけた話をします。
01「鎖国」という言葉は、1801年の翻訳から生まれた
志筑忠雄は、1760年に生まれ、1806年に亡くなった人です。長崎の商人の家に生まれ、オランダ語の通訳(通詞)の家、志筑家の養子になりました。ただ、体が弱く、通詞の仕事は若いうちにやめたとされています。そのあとも、オランダ語の本を読んで訳すことを続けました。
九州大学の大島明秀さんたちは、志筑の『鎖国論』について、次のように書いています。この本は1801年にできあがり、「鎖国」という言葉の始まりになった書物だ、と。
江戸幕府が外国との行き来をきびしく制限し始めたのは、それよりずっと前です。国立国会図書館の年表によると、1635年に日本人が海外へ行くことと帰ってくることが禁止されました。1639年には、ポルトガル人が追い出されました。1641年には、オランダの商館(貿易のための事務所)が、平戸から長崎の出島に移されました。
つまり、こうした決まりが作られたころ、「鎖国」という言葉は、まだありませんでした。
02もとの論文は、ドイツ人医師ケンペルが、日本が国を閉ざしていることについて書いたもの
もとの論文を書いたのは、エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)です。ドイツ北部のレムゴーという町の出身で、医者で、動物や植物にもくわしい人でした。ケンペルは、オランダ東インド会社(オランダの貿易会社)の医者として、1690年に日本に来ました。オランダの商館長について江戸まで2回旅をし、1692年に日本を離れました。
ケンペルは、1712年にラテン語で本を出しました。その中に、日本についての論文が1つ入っています。題を日本語にすると、「日本は、とてもよく考えたうえで、自分の国の人が外国へ出ることと、外国の人が入って交易することを禁じている」となります。
ケンペルが亡くなったあと、1727年に、ロンドンで英語の『日本誌(The History of Japan)』が出ました。日本の歴史や地理、動物や植物などをまとめた本です。ケンペルの日本についての論文も、付録としてのせられました。英語版での題は、問いの形になっています。「日本を今のように閉ざしておき、外国との交易をさせないことは、日本のためになるのか」という問いです。

03ケンペルは、国を閉ざすのはふつうは悪いことだが、日本はうまくいっていると書いた
論文の書き出しは、日本の話ではありません。地球を分けて、人どうしの行き来を断ち切るのは悪いことだ。多くの人はそう考えるだろう、という一般論から始まります。
ところが、その先で、ケンペルは日本を例外として描きます。日本の人々は、自分の国の中で必要な物を手に入れ、満ち足りて幸せに暮らしている。国を閉ざしてからも、外国にたよらずに暮らせている。そういう書き方です。
国立国会図書館は、この論文の考え方を次のようにまとめています。日本が国を閉ざすのはもっともなことで、人々は平和に、幸せに暮らしている。つまり、日本に好意的な論文だった、というのです。
04志筑の『鎖国論』は書き写して広まり、1850年の出版はすぐに止められた
志筑は、オランダ語版の『日本誌』から、この論文を訳しました。国立国会図書館が持っている1733年のオランダ語版では、476ページからこの論文が始まります。
大島さんたちによると、志筑はそのまま訳したのではありません。自分の考えや説明を書き足しています。多くは、ケンペルの見たことをおぎなったり、まちがいを直したりする書き足しです。でも、西洋への反感を示す部分も見られる、といいます。志筑の『鎖国論』の全体の考え方は、「国を閉ざすのは、ふつうはよくない。でも、今の日本ならそれでよい」という、条件つきの賛成でした。
『鎖国論』は、人々が手で書き写した本(写本)として、あちこちに広まりました。九州大学には、1820年に写された本を、1830年にさらに写した写本が残っています。上下2冊です。
1850年、黒沢翁満という学者が、題を『異人恐怖伝』に変えて、この本を出版しました。異人とは、外国人のことです。ちょうど、外国が日本に国を開くよう強く求めていたころです。黒沢は、日本がすぐれた国だと今の人に気づかせるために出した、と書いています。でも、この本はすぐに、幕府から出版を差し止められました。
052017年、学習指導要領の案から「鎖国」の文字が消えかけた
「鎖国」という言葉は、今の学校の授業でも使われています。その授業のもとになるのが、文部科学省の「学習指導要領」です。学校が授業の計画を立てるときの、国の基準です。
2017年2月14日、文部科学省は、新しい学習指導要領の案を公表しました。この案では、小学校の社会は「参勤交代,幕府の対外政策」、中学校の社会は「江戸幕府の対外政策」となっていました。どちらにも「鎖国」の文字がありませんでした。
ところが、広く意見を集めたあとで、最終版は書き直されました。小学校は「参勤交代や鎖国などの幕府の政策」です。中学校は「鎖国などの幕府の対外政策」です。「鎖国」の文字は、残ることになりました。
ただし、中学校の学習指導要領の解説には、気になる書き方があります。海外へ行くことを禁止したり、貿易船を制限したりした幕府の政策を、「のちに鎖国と呼ばれた」政策と書いているのです。国の解説も、「鎖国」が後の時代の呼び名であることを書いています。
深掘り講義
ここから先は、もう一段深く。しくみ・史料・論争まで踏み込みます。
「鎖国」の時代も、日本は4つのルートで外国や北の地域とつながっていた
中学校の学習指導要領の解説は、「鎖国」の時代の外とのつながりを4つ挙げています。1つ目は、長崎でのオランダや中国との交易です。2つ目は、対馬(今の長崎県の島)を通しての朝鮮との交流です。3つ目は、中国とのつながりの中での琉球(今の沖縄)の役わりです。4つ目は、蝦夷地(明治より前の、北海道などの呼び名)のアイヌの人々が、北の地域と海産物などを交易していたことです。
解説は、こうした内容を通して、「統制の中にも交易や交流が見られた」ことに気づかせるよう求めています。つまり、国は完全に閉じていたのではありません。この4つの例から、決まった場所で、決まった相手との行き来が続いていたことが分かります。
同じ論文が、出す人と時代によって別の題で出された
「鎖国」は、後の時代の人がつけた名前です。そして、ケンペルの論文は、訳した人や出した人によって、題が変わりました。
ケンペルの論文は、日本が国を閉ざしていることに好意的でした。志筑の訳も、条件つきで賛成する内容でした。ところが、1850年に黒沢翁満が出版したときには、題が『異人恐怖伝』に変わりました。黒沢は、日本がすぐれた国だと人々に気づかせるために出した、と書いています。同じ論文でも、出す人と時代によって、題と、読む人に伝えたいことが変わったのです。
志筑の『鎖国論』には、ケンペルの文と志筑の書き足しがまざっている
志筑の『鎖国論』は、ケンペルの論文をそのまま訳した本ではありません。志筑自身の解釈や付け足しが入っています。大島さんたちによると、ケンペルの見たことをおぎなう説明や、まちがいの訂正が多いそうです。
そのため、『鎖国論』を読むときは、どこがケンペルの言葉で、どこが志筑の言葉かを分けて考える必要があります。大島さんたちは、志筑が書いた『鎖国論』のもとの形がどうだったかは、まだ分かっていないと書いています。九州大学の写本には、だれが持っていた本をいつ写したかが書きこまれています。大島さんたちは、この写本が志筑のもとの本に近いと考えています。
英語版の題には「shut up(閉じこめておく)」という言葉が入っていた
ケンペルの論文の、1727年の英語版の題を、もう一度見てみましょう。そこには、「shut up」という言葉が入っています。「閉じこめておく」「閉ざしておく」という意味です。日本を「今のように閉ざしておく」ことはよいのか、という問いでした。
志筑は、この論文の訳に『鎖国論』という題をつけました。「鎖」という字は、「鎖す(さす)」と読むと、門や戸を閉めて錠をおろす、という意味になります(小学館『デジタル大辞泉』)。英語版の「shut up」と、志筑の題の「鎖」は、よく似た意味の言葉です。ただし、志筑が読んだのは英語版ではなく、オランダ語版です。志筑がオランダ語のどの言葉を見て「鎖」の字を選んだのかは、この記事で使った資料には書かれていません。
「言葉がなかった」ことと「政策がなかった」ことは別の話
注意したいのは、言葉が後からできたからといって、政策がなかったわけではないことです。1635年の海外渡航の禁止や、1639年のポルトガル人の追放は、実際にあった出来事です。変わったのは、それらをまとめて呼ぶ名前のほうです。
2017年の改訂案は、「鎖国」を使わずに「幕府の対外政策」と書く形を、一度示しました。最終版では「鎖国などの幕府の対外政策」となり、言葉は残りました。そして解説には、「のちに鎖国と呼ばれた」という書き方が入りました。
06まとめ
「鎖国」という言葉は、江戸幕府がつけた名前ではありません。1801年、長崎の志筑忠雄が、ドイツ人医師ケンペルの論文をオランダ語から訳し、『鎖国論』と名づけたのが始まりです。ポルトガル人を追い出した1639年から162年あとでした。
もとの論文は、国を閉ざすのはふつうは悪いことだとしながら、日本はうまくいっていると書いた、日本に好意的なものでした。2017年には、学習指導要領の案から「鎖国」の文字が一度消え、最終版で戻りました。今の中学校の解説は、幕府の政策を「のちに鎖国と呼ばれた」政策と書いています。
人に話すなら、こう言おう
「鎖国」って、江戸幕府がつけた名前じゃないんだって。1801年に長崎の志筑忠雄って人が、ドイツ人のお医者さんが書いた論文を訳して『鎖国論』って名前をつけたのが始まり。ポルトガル人を追い出してから160年以上あとの話なんだよ。
英語で読む
Where Did the Word Sakoku Come From?
英文をタップすると、その文の訳が出ます。
Many students in Japan learn the word sakoku in history class.日本の多くの生徒は、歴史の授業で「鎖国」という言葉を習います。 It means a closed country.「閉ざされた国」という意味です。 In the 1600s, the Tokugawa government limited contact with other countries.1600年代、江戸幕府は外国とのつき合いを制限しました。 In 1639, it sent the Portuguese away.1639年には、ポルトガル人を追い出しました。 But the word sakoku did not exist yet.でも、「鎖国」という言葉は、まだありませんでした。
The word first appeared in 1801.この言葉が初めて現れたのは1801年です。 A man in Nagasaki named Shizuki Tadao translated part of a Dutch book into Japanese.長崎の志筑忠雄という人が、オランダ語の本の一部を日本語に訳しました。 He gave his translation the title Sakoku-ron.彼は、その訳に『鎖国論』という題をつけました。
The writer of the original text was Engelbert Kaempfer, a German doctor.もとの文章を書いたのは、ドイツ人の医者、エンゲルベルト・ケンペルです。 He worked for a Dutch trading company and lived in Japan from 1690 to 1692.彼はオランダの貿易会社で働き、1690年から1692年まで日本にいました。 In the English version, his essay asked a question.英語版では、彼の論文は、ある問いを立てていました。 Was it good for Japan to stay shut up?日本が国を閉ざしたままでいるのは、よいことなのか、という問いです。 He wrote that closing a country is usually wrong.彼は、国を閉ざすのはふつうはまちがいだと書きました。 But he said the Japanese had enough of what they needed at home, and they lived happily.でも、日本の人々は必要な物を国の中で十分に手に入れ、幸せに暮らしている、とも書きました。
Shizuki did not just translate the essay.志筑は、論文をただ訳しただけではありません。 He also added his own ideas.自分の考えも書き足しました。 People copied his work by hand, and it spread around Japan.人々は彼の本を手で書き写し、本は日本のあちこちに広まりました。 In 1850, someone printed it with a new title, but the government quickly stopped it.1850年、ある人が新しい題をつけて出版しましたが、幕府はすぐにそれを差し止めました。
In 2017, the government showed a plan for new school guidelines without the word sakoku.2017年、国は「鎖国」という言葉を使わない、新しい学校の指導要領の案を示しました。 But the final version kept the word.でも、最終版では、その言葉は残りました。 Today, the guide for junior high schools calls it a policy that was later called sakoku.今、中学校向けの解説は、それを「のちに鎖国と呼ばれた」政策と書いています。
4択問題 Reading Quiz
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Q1What is this story mainly about?
この話は主に何についてのものですか。
正解:B Where the word sakoku came from
第1段落で「鎖国」という言葉がまだなかったと述べ、第2〜5段落でその言葉の始まりとその後をたどっているので正解はB。Aのポルトガル人は第1段落に少し出てくるだけ。
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Q2When did the word sakoku first appear?
「鎖国」という言葉が初めて現れたのはいつですか。
正解:C In 1801
第2段落1文目に「The word first appeared in 1801.」とあるので正解はC。Aの1639年はポルトガル人を追い出した年、Dの1850年は本が出版されて差し止められた年。
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Q3What did Kaempfer say about Japan in his essay?
ケンペルは論文の中で日本について何と言いましたか。
正解:A The Japanese lived happily with what they had at home.
第3段落の最後の文に、日本の人々は必要な物を国の中で十分に手に入れ、幸せに暮らしているとあるので正解はA。Cは本文と逆の内容。
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Q4In paragraph 4, the word "spread" is closest in meaning to
第4段落の "spread" に最も意味が近いのはどれですか。
正解:D went to many places
手で書き写された本が「日本のあちこちに」広まったという文なので、「多くの場所に行きわたった」のDが正解。Aの「壊れた」では around Japan とつながらない。
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Q5Which is true about the school guidelines in 2017?
2017年の学校の指導要領について正しいのはどれですか。
正解:B The plan did not use the word sakoku, but the final version did.
第5段落1〜2文目に、案には「鎖国」がなかったが最終版では残ったとあるので正解はB。Cは逆で、Dの志筑は1801年の人物。
重要語 Key Words(タップで裏返る)
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limit動詞制限する
The school limits phone use in class.
その学校は授業中の電話の使用を制限している。
💡 名詞も limit(限度)。speed limit=制限速度。
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contact名詞接触、つき合い、連絡
I lost contact with my old friend.
私は昔の友だちと連絡が取れなくなった。
💡 contact with A で「Aとの接触」。動詞では「連絡する」。
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translate動詞翻訳する、訳す
Can you translate this letter into English?
この手紙を英語に訳してくれますか。
💡 translate A into B で「AをBに訳す」。名詞は translation(翻訳)。
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trading company名詞貿易会社、商社
My uncle works for a trading company in Osaka.
おじは大阪の商社で働いている。
💡 trade(貿易する)+ company。trade は「交換する」の意味でも使う。
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essay名詞論文、小論、作文
We wrote an essay about our town.
私たちは自分たちの町について作文を書いた。
💡 学校の「作文」から研究者の「論文」まで広く使う。
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shut動詞閉める、閉ざす
Please shut the window. It is cold.
窓を閉めてください。寒いので。
💡 shut-shut-shut と変化しない。shut up は「閉じこめる」、話し言葉では「黙る」の意味もあるので注意。
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copy動詞写す、書き写す
I copied the words from the board.
私は黒板の言葉を書き写した。
💡 copy by hand=手で書き写す。名詞では「写し、コピー」。
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policy名詞政策、方針
The city has a new policy on trash.
市にはごみについての新しい方針がある。
💡 foreign policy=外交政策。a school policy=学校の方針。
SOURCES出典・ウラ取り
この記事の事実は、次の資料を実際に開いて確認しています(確認した事実 23件)。
- 大島明秀・宮崎克則 (2005)「鎖国」の創出 志筑忠雄訳『鎖国論』―「桑木文庫」―, 図書館情報 41(1) 九州大学附属図書館doi.org
- 日蘭交流の歩み:ケンペル、異人恐怖伝(国立国会図書館 電子展示会)ndl.go.jp
- 日蘭交流の歩み:年表(国立国会図書館 電子展示会)ndl.go.jp
- Nespoli, L. (2022) The Poetic Knowledge of Shizuki Tadao, Annali di Ca' Foscari. Serie orientale 58doi.org
- Kaempfer, E. (1727) The History of Japan, Vol. 2, London(付録 VI「An Enquiry…」)archive.org
- 改訂案(2/14公表)からの修正点(文部科学省, 2017)mext.go.jp
- 中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 社会編(文部科学省)mext.go.jp
- 鎖す(デジタル大辞泉, 小学館 / コトバンク)kotobank.jp
公式ページで見てみよう
- 国立国会図書館 電子展示会「日蘭交流の歩み」ndl.go.jp
文章はすべて資料をもとに独自の言葉で書いています。画像はオリジナルのイメージです。誤りにお気づきの方は訂正窓口へ。
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No.016ウソFALSEナポレオンの身長は約169cmで、当時のフランス人の平均より高かった
「背の低いナポレオン」は、イギリス発のイメージ。
No.017ウソFALSE「パンがなければお菓子を」は、マリー・アントワネットの言葉ではなかった
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