新しい出来事を覚えられない男性が、それでも"上達"したもの。記憶の教科書を変えた患者H.M.

読む前に予想してみよう!
患者H.M.は、手術後に新しい技(鏡を見て線を描く課題)を練習しても上達しなかった
練習したこと自体は覚えていなかったが、技はちゃんと上達した。記憶には種類があることを示した。
- 対象
- 1人の患者(H.M.)
- 規模
- 1人(約55年間)
- 研究の種類
- 症例研究
- 確かさ
- ★★★☆☆
てんかんの手術で海馬などを失い、新しい出来事を覚えられなくなった患者H.M.。でも鏡を見ながら線を引く技は、練習した記憶がないまま上達した。
ひとことで言うと出来事は覚えられなくても、体で覚える技は上手になれたんだ。
心理学や脳科学の教科書に、必ずといっていいほど登場する人物がいます。名前は長いあいだ伏せられ、「H.M.」というイニシャルだけで呼ばれていました。
彼の本名はヘンリー・モレゾン。2008年に82歳で亡くなったとき、初めて名前が公表されました。彼の人生は、「記憶とは何か」という問いに、誰よりも大きな答えをくれたのです。
011953年、ある手術
ヘンリーさんは子どものころから、重いてんかんの発作に苦しんでいました。薬では抑えられず、仕事も続けられないほどでした。
1953年、27歳のとき、脳外科医スコヴィルによって、発作の原因と考えられた脳の左右の内側側頭葉(海馬とその周辺)を取り除く手術が行われました。
発作は減りました。でも、思いもよらないことが起きたのです。
02「さっき会った人」が、ずっと初対面
この発見から、海馬などの内側側頭葉が、新しい記憶を作るのに欠かせないことがはっきりしました。それまでは「記憶は脳全体にぼんやり広がっている」と考える研究者も多かったのです。
03覚えていないのに、上手になった
ミルナーさんはさらに、ヘンリーさんにこんな課題を出しました。
鏡に映った自分の手だけを見ながら、星形の図形の線の内側をなぞる。左右が反対に見えるので、誰でも最初はとても苦労します。
ヘンリーさんは、これを3日間くり返しました。毎回、「こんなのやったことがない」と言います。ところが成績は、日を追うごとにちゃんと上達していったのです。

この結果は、記憶には少なくとも2つの種類があることを示しました。
- 陳述記憶:出来事や知識など、言葉で説明できる記憶 → 海馬が欠かせない
- 手続き記憶:自転車の乗り方など、体で覚える技 → 海馬が大きく傷ついていても作られる
04亡くなった後も、研究に協力した
ヘンリーさんは生涯にわたり、約55年間、多くの研究者の調査に協力しました。長年彼を調べた神経科学者コーキン(Corkin)さんのことも、毎回「初対面」として迎えたといいます。
亡くなった後、彼の脳は生前の同意にもとづいて保存され、非常に薄くスライスして詳しく調べられました。2014年の報告では、手術で取り除かれずに残っていた海馬の組織がかなりあったことや、左の前頭葉に小さな損傷があったこともわかりました。手術の範囲は、生前に考えられていたものと少し違っていたのです。
05まとめ
新しい出来事を覚えられなくなったヘンリー・モレゾンさん。でも彼は、練習した記憶がないまま、技を身につけることができました。
その姿は、記憶が一つではなく、脳の中にいくつもの仕組みがあることを教えてくれました。私たちが今、記憶について知っていることの重要な部分は、彼の長年の協力の上に成り立っています。
この研究を英語で読もう原田英語の English CornerHenry Molaison, known for decades only as H.M., is one of the most famous patients in brain science.
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4択クイズ9問A2・B1・B2タップして開く
原田英語の English Corner
この研究を英語で読もう
In 1953, a 27-year-old man called H.M. had brain surgery to stop serious seizures. Doctors removed parts of his brain, including the hippocampus. After that, he could not remember new events. He met people again and again, but each time he said, "Nice to meet you."
Then he practiced drawing a star while looking in a mirror. He never remembered practicing, but he got better every day.
67 words ・ CEFR A2
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1953年、H.M.と呼ばれる27歳の男性が、重い発作を止めるために脳の手術を受けました。医師たちは、海馬を含む脳の一部を取り除きました。その後、彼は新しい出来事を覚えられなくなりました。同じ人に何度も会っても、そのたびに「はじめまして」と言いました。
その後、彼は鏡を見ながら星の形を描く練習をしました。練習したことは一度も覚えていませんでしたが、毎日上手になっていったのです。
4択リーディングクイズ
Q1. What is the passage mainly about?
新しい出来事を覚えられなくなった H.M. が、技は上達した、という話なので B。
Q2. How old was H.M. when he had the surgery?
a 27-year-old man called H.M. とあるので D。53は年号1953の一部。
Q3. Why did H.M. say "Nice to meet you" to people he had met before?
手術後は新しい出来事を覚えられなかったので、会ったことを覚えていなかった。正解は C。
Henry Molaison, known for decades only as H.M., is one of the most famous patients in brain science. In 1953, at the age of 27, he had surgery to remove parts of both medial temporal lobes, including the hippocampus, to treat severe epilepsy. His seizures decreased, but he lost the ability to form new memories of events.
However, many older memories, his ability to talk, and his intelligence were mostly unaffected. Psychologist Milner then gave him a difficult task: tracing a star while looking only at a mirror. Over three days, he improved steadily, even though he insisted each time that he had never done it before. This showed that memory for skills uses different systems from memory for events.
120 words ・ CEFR B1
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何十年ものあいだH.M.とだけ呼ばれていたヘンリー・モレゾンさんは、脳科学で最も有名な患者の一人です。1953年、27歳のとき、彼は重いてんかんを治療するため、海馬を含む左右の内側側頭葉の一部を取り除く手術を受けました。発作は減りましたが、彼は出来事についての新しい記憶を作る能力を失いました。
しかし、昔の多くの記憶や話す能力、知能はほとんど影響を受けませんでした。その後、心理学者ミルナーは彼に難しい課題を与えました。鏡だけを見ながら星形をなぞるというものです。3日間で彼は着実に上達しましたが、毎回「一度もやったことがない」と言い張りました。このことは、技能の記憶は出来事の記憶とは別の仕組みを使っていることを示したのです。
4択リーディングクイズ
Q1. What was the purpose of H.M.'s surgery?
to treat severe epilepsy とあるので B。
Q2. Which ability did H.M. lose after surgery?
he lost the ability to form new memories of events とあるので D。古い記憶・会話・知能はほぼ保たれた。
Q3. What does the mirror-tracing result suggest?
練習を覚えていないのに上達した=技能の記憶は出来事の記憶と別の仕組み、なので A。D は結果と矛盾する。
In 1953, a 27-year-old man with epilepsy that medication could not control had surgery to remove much of the medial temporal lobe on both sides, including the hippocampus. His seizures became less frequent. But he was left with profound anterograde amnesia, greeting people he had met many times as strangers. Until his death in 2008, the world knew him only as H.M. His name was Henry Molaison. Many earlier memories, his intelligence and his conversational skills stayed largely intact.
When Scoville and Milner reported the case in 1957, it established that these structures are essential for forming new memories and overturned the view that memory is spread evenly across the brain. Milner later asked him to trace a star while watching his hand only in a mirror. Over three days his performance improved, though each time he said he had never tried it. Learning a skill and remembering an experience, it seemed, depend on separate systems, procedural and declarative memory.
But a 2014 post-mortem analysis found that considerable hippocampal tissue had survived and that his left frontal lobe was damaged, so the surgery alone may not explain his deficits. He took part in research for about 55 years.
198 words ・ CEFR B2
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1953年、薬でてんかんを抑えられなかった27歳の男性が、海馬を含む脳の左右の内側側頭葉の大部分を取り除く手術を受けました。発作は減りました。しかし彼には重い前向性健忘が残り、何度も会った人にも、まるで初対面のようにあいさつしました。2008年に亡くなるまで、世間は彼をH.M.としか知りませんでした。彼の名前はヘンリー・モレゾンといいます。それ以前の多くの記憶、知能、会話する力は、ほとんどそのまま保たれていました。
1957年にスコヴィルとミルナーがこの症例を報告すると、これらの構造が新しい記憶を作るのに欠かせないことが確立され、記憶は脳全体に均等に広がっているという見方も覆されました。その後ミルナーは、鏡に映った自分の手だけを見ながら星形をなぞるよう彼に求めました。3日間で成績は向上しましたが、彼は毎回、一度もやったことがないと言いました。技能を身につけることと、経験を覚えておくことは、手続き記憶と陳述記憶という別々の仕組みに頼っているようでした。しかし、2014年の死後解析では、かなりの海馬組織が残っていたことや、左の前頭葉が損傷していたことがわかりました。
そのため、彼の障害は手術だけでは説明できないかもしれません。彼は約55年間、研究に協力しました。
4択リーディングクイズ
Q1. Which view did H.M.'s case overturn?
overturned the view that memory is spread evenly across the brain とあるので A。
Q2. What does "anterograde amnesia" mean in this passage?
何度も会った人を初対面のように迎えた、という説明から「ある時点以降の新しい記憶が作れない」状態とわかるので C。
Q3. Why does the author say surgery alone may not explain H.M.'s deficits?
a 2014 post-mortem analysis found that considerable hippocampal tissue had survived and that his left frontal lobe was damaged とあるので D。
重要単語
- amnesiaC1名詞記憶喪失、健忘Amnesia can be caused by brain injury.
a-(否定)+mnesia(記憶)。amnesty(恩赦=罪を忘れる)も同語源。 - anterogradeC1形容詞前向性の(それ以降の)Anterograde amnesia stops new memories from forming.
antero-(前へ)。反対は retrograde(逆向性の=それ以前の記憶が失われる)。 - procedural memoryC1名詞(句)手続き記憶(体で覚える記憶)Riding a bike depends on procedural memory.
procedure(手順)の形容詞形。knowing how(やり方の知識)とも言う。 - declarative memoryC1名詞(句)陳述記憶(言葉で言える記憶)Facts and events are part of declarative memory.
declare(宣言する・述べる)から。knowing that(事実の知識)とも言う。 - removeB1動詞取り除くThe surgeon removed part of the tissue.
remove A from B「BからAを取り除く」。名詞 removal。 - intactC1形容詞損なわれていない、元のままのHis intelligence remained intact after the surgery.
in-(否定)+tact(触れる)=「触れられていない」。remain intact の形で頻出。
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1953年、てんかんの手術で脳の海馬などを取り除いた27歳の男性は、新しい出来事をまったく覚えられなくなった。ところが鏡を見ながら星形をなぞる練習をさせると、「初めてやる」と言いながら日に日に上達したらしい。
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出典・参考文献(4件)タップで表示
- Scoville & Milner (1957) Loss of recent memory after bilateral hippocampal lesions, Journal of Neurology, Neurosurgery & Psychiatrydoi.org
- Corkin (2002) What's new with the amnesic patient H.M.?, Nature Reviews Neurosciencedoi.org
- Squire (2009) The legacy of patient H.M. for neuroscience, Neurondoi.org
- Annese et al. (2014) Postmortem examination of patient H.M.'s brain based on histological sectioning and digital 3D reconstruction, Nature Communicationsdoi.org
※本記事は上記の研究・公開資料をもとに、原田英語が独自の言葉で解説したものです。引用は著作権法第32条の範囲で行い、出典を明記しています。画像はすべてオリジナルのイメージです。研究結果には限界や個人差があります。誤りのご指摘は原田英語のお問い合わせフォームから。













