QUOTE CHECK ・ 25

名言の出典 マジか図鑑全部出典つき・25本

「アインシュタインのあの名言、本人は言っていません」。有名な名言を、最初に記録された本・新聞・手紙までさかのぼって確かめます。

1言っていない

「同じことをくり返して違う結果を期待するのは狂気だ」

言ったとされる人:アルバート・アインシュタイン

アインシュタインが言った記録は見つかっていません。見つかっている最古の記録は彼の死から26年後の1981年で、アメリカのアルコール依存症の人の家族の会で、参加者が言った言葉です。

本当の出どころ
1981年10月、テネシー州の新聞ノックスビル・ニュース・センチネルが、アルコール依存症の人の家族の会(アラノン)で参加者が言った言葉として報じた。これが見つかっている最古の記録。
なぜそう言える? 根拠を読む

クオート・インベスティゲーター(QI)は、名言の出どころを一次資料で調べるサイトです。QIが、この言葉の記録をさかのぼりました。見つかったいちばん古い記録は、1981年10月11日のテネシー州の新聞の記事です。アルコール依存症の人の家族が集まる会で、参加者の一人が言った言葉として出てきます。

同じ年の11月には、ほぼ同じ文が冊子にものりました。薬物依存からの回復をめざす団体、ナルコティクス・アノニマスの冊子です。冊子の文は「狂気とは、同じ失敗をくり返して違う結果を期待すること」です。どちらにも、アインシュタインの名前は出てきません。

1990年には、この言葉がアインシュタインのものとして新聞にのっていました。テキサス州の地方検事が「アインシュタインがこう言った」と話したと、地元の新聞が書いています。アインシュタインが亡くなった1955年から35年後です。プリンストン大学出版局の名言集も、この言葉を「アインシュタインのものとされるが誤り」の欄に入れています。QIは、依存症からの回復をめざす人たちの会の中で生まれた言葉だと結論づけています。

2本人の言葉

「想像力は知識よりも大切だ」

言ったとされる人:アルバート・アインシュタイン

本人の言葉です。1929年、アメリカの週刊誌のインタビューで、日食の観測で自分の理論が確かめられた話の流れで語っています。

本当の出どころ
1929年10月26日号の米週刊誌『サタデー・イブニング・ポスト』にのった、記者ジョージ・シルベスター・ヴィーレックによるインタビュー記事。
なぜそう言える? 根拠を読む

この言葉は、1929年10月26日号の週刊誌『サタデー・イブニング・ポスト』に出てきます。記者のヴィーレックがアインシュタインに会って話を聞いた記事です。当時の紙面は、雑誌の公式サイトで今も読めます。

話の流れはこうです。アインシュタインは「私は直感とひらめきを信じている」と話しました。1919年5月29日の日食の観測で相対性理論が確かめられたときも、驚かなかったそうです。むしろ「まちがっていたら驚いただろう」と言っています。

記者が「では、知識より想像力を信じるのですか」と聞くと、答えはこうでした。「想像力は知識より大切だ。知識には限りがある。想像力は世界を包みこむ」。

2年後の1931年には、アインシュタインの言葉を集めた本にも、この一文がのりました。前後の文の言い回しは、インタビューと少し違います。ニューヨーク・タイムズもその本の書評で、この一文を取り上げています。

3言っていない

「ミツバチが消えたら、人類は4年で滅びる」

言ったとされる人:アルバート・アインシュタイン

アインシュタインが言った記録は見つかっていません。「4年」という形で見つかっている最古の記録は、彼の死から10年後の1965年、フランスの動物雑誌の記事です。

本当の出どころ
1965年5月、パリの雑誌『ラ・ヴィ・デ・ベート』が「アインシュタインが計算した」として書いた。これが「4年」の形で見つかっている最古の記録。
なぜそう言える? 根拠を読む

元になった考えは、ベルギーの作家メーテルリンクが1901年に書いた『蜜蜂の生活』にあります。そこには「ミツバチが訪れなくなれば、10万をこえる種類の植物が消えると見積もられている」と書かれています。人類の滅亡も、4年という数字も出てきません。

名言の出どころを調べるサイトに「クオート・インベスティゲーター(QI)」があります。QIによると、アインシュタインの名前が結びついた最古の例は1941年です。カナダの養蜂の雑誌に、筆者が植物が消える話を書きました。そのとき「たしかアインシュタインが言ったと思うが」と前置きしています。QIは、筆者がダーウィンやメーテルリンクと取りちがえたのだろうと見ています。

「人類は4年で消える」という形で見つかっている最古の例は、1965年5月のパリの動物雑誌です。アインシュタインは1955年に亡くなっています。1994年には、ブリュッセルで養蜂家のデモがありました。そこでフランスの養蜂家の全国団体が、この言葉をのせたビラを配っています。

4言っていない

「複利は人類最大の発明だ」

言ったとされる人:アルバート・アインシュタイン

アインシュタインが言った証拠は見つかっていません。ほぼ同じ言い回しが1916年の投資会社の新聞広告にあり、彼の名前がついた例で最も古いのは、死後21年の1976年です。

本当の出どころ
1916年6月28日、カリフォルニア州の新聞リバーサイド・デイリー・プレスにのった投資会社の広告「最大の発明」。複利をこう呼んだ形で見つかっている最古の記録。
なぜそう言える? 根拠を読む

名言の出どころを調べるサイトに「クオート・インベスティゲーター(QI)」があります。QIが見つけたいちばん古い形は、1916年の新聞広告です。3人の友人が「いちばんの発明は何か」と話し合い、1人が「複利だ」と答える作り話でした。広告は「コロンブスが1ドルを年6%の複利で預けていたら、今ごろ100億ドルをこえる」と続けます。

もっと前の1906年には、作家ジャック・ロンドンが、複利を「人間のすばらしい発明」と呼んでいます。随筆「私にとって人生とは」の中の文です。子どものころ、利息の仕組みを必死に理解しようとした思い出として書きました。

アインシュタインと結びついた例で、QIが見つけた最初のものは1976年8月です。元下院議員のヘイスティングス・キースが、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事で書きました。「いちばんの発明は何かと聞かれたアインシュタインは、『複利』と答えたと伝えられる」。書いた本人も「伝えられる」とぼかしています。

5本人の言葉

「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」

言ったとされる人:トーマス・エジソン

エジソン本人の言葉と考えてよい記録があります。ただし英語の原文の「努力」は「汗」で、見つかっている最初の記録では割合も「2%と98%」でした。

本当の出どころ
1898年4月の米雑誌『レディース・ホーム・ジャーナル』に「2%が天才、98%が努力」として出たのが、見つかっている最古の記録。「1%と99%」の形は1901年5月の新聞から。
なぜそう言える? 根拠を読む

名言の出どころを調べるサイトに「クオート・インベスティゲーター(QI)」があります。QIの調べでは、エジソンの言葉として見つかったいちばん古い記録は、1898年4月の雑誌『レディース・ホーム・ジャーナル』です。天才とは何かと聞かれたエジソンが「2%が天才で、98%は努力だ」と答えたとあります。記事は「あるとき聞かれて」と書くだけで、日時や場所はありません。同じ記事には「ひらめきとは汗のことだ」という言葉ものっています。

「天才はひらめきより汗」という言い方は、エジソンより前の1892年の新聞に、もう出ています。QIは、それを割合で言い表したのがエジソンだと見ています。

「1%と99%」の形がQIの見つけた中で初めて出るのは、1901年5月のアイダホ州の新聞です。その後しばらく、2対98と1対99の両方が出回りました。1910年には、伝記『エジソン その生涯と発明』が、1対99の形をエジソンの「歴史に残る言葉」として紹介しています。

1932年には、エジソンの研究所で働いていたロザノフという人が、雑誌に書きました。エジソン本人が、1対99の形を「私が言った言葉」として話したそうです。英語の原文は「1%のinspiration(ひらめき)と99%のperspiration(汗)」です。2つの単語の終わりの音がそろっています。

6元は別の形

「世界に変化を望むなら、自らがその変化となれ」

言ったとされる人:マハトマ・ガンディー

この短い形はガンディーの書いた物に見つかっていません。似た考えは1913年に彼が書いたヘビの話の中にあり、標語の形で見つかっている最古の例は1974年のアメリカの教師の文章です。

本当の出どころ
標語の形で見つかっている最古の例は、ニューヨークの高校の教師だったアーリーン・ロランスが1974年に書いた文章「ラブ・プロジェクト」。考えの元は1913年8月9日のガンディーの新聞記事。
なぜそう言える? 根拠を読む

ガンディー本人の文で、いちばん近いのは1913年8月9日のものです。のったのは、南アフリカの新聞『インディアン・オピニオン』です。ガンディーがグジャラート語で書いた健康の連載の1回で、テーマはヘビにかまれたときの話でした。

その中で、ガンディーは「人間の舌にもヘビのような毒がある」と書きます。そして「自分が変われば、世の中の傾向も変わる」と続けます。さらに「他人がどうするかを待つ必要はない」とも書いています。インド政府が出した『ガンディー全集』の英語訳で、この文章を読むことができます。

短い標語の形で見つかっている最古の例は、1974年の文章です。書いたのは、ニューヨークの高校の教師だったアーリーン・ロランスでした。文は「起きてほしい変化に、自分がなろう」という形で、「世界」という言葉はまだありません。

名言の出どころを調べるサイトに「クオート・インベスティゲーター(QI)」があります。QIが見つけた中では、ガンディーの名前がついた例は1987年の新聞が最初でした。ガンディーの家族は「本人がよく口にしていた」と話しています。ただ、ガンディーが書いた物の中には見つかっていません。

7言っていない

「若くしてリベラルでなければ心がなく、老いて保守でなければ頭がない」

言ったとされる人:ウィンストン・チャーチル

チャーチルが言った記録はありません。見つかっている最古の形は1872年のフランスの政治家の手紙にあり、「リベラル」ではなく「共和派」でした。

本当の出どころ
1872年12月3日付で、フランスの法学者で政治家のアンセルム・バトビが公表した手紙。バトビ自身は「バークの有名な言葉」として引用していた。
なぜそう言える? 根拠を読む

名言の出どころを調べるサイトに「クオート・インベスティゲーター(QI)」があります。QIが見つけたいちばん古い記録は、1872年12月3日付の手紙です。書いたのは、フランスの法学者で政治家のバトビでした。20歳で共和派でない者は、心の広さを疑われると書いています。30歳をこえて共和派のままなら、頭の確かさを疑われるとも書きました。

バトビはこれを、イギリスの政治家バークの「有名な言葉」として引いています。ただしQIは、バークの著作の中にこの言葉を見つけられていません。その後、主語は「共和派」から「社会主義者」や「リベラル」に変わりました。言った人も、ユーゴーやスウェーデン王オスカル2世などと入れかわりました。

チャーチルの名前がついた例は、QIが見つけた中では1986年のアメリカの新聞が最初です。国際チャーチル協会は、チャーチルがこう言うのを聞いた記録はないとしています。エディンバラ大学の歴史家アディソンは、チャーチル本人が15歳では保守派、35歳では自由党員だったと指摘しています。

8言っていない

「生き残るのは最も強い者ではなく、変化に対応できる者だ」

言ったとされる人:チャールズ・ダーウィン

ダーウィンの著作にこの言葉はありません。たどれるいちばん古い形は1963年、アメリカの経営学の教授が講演で『種の起源』を自分の言葉でまとめた文です。

本当の出どころ
1963年、ルイジアナ州立大学の経営学教授レオン・メギンソンが、南西部社会科学協会の大会で行った講演。
なぜそう言える? 根拠を読む

元になったのは、ルイジアナ州立大学の経営学の教授メギンソンが1963年に行った講演です。彼は「ダーウィンの『種の起源』によれば」と前置きして話しました。生き残るのは最も知的な種でも最も強い種でもなく、変わる環境に最もうまく合わせられる種だ、という内容です。引用の印はつけておらず、自分なりのまとめでした。

このまとめが、少しずつ短くなります。1968年の本は、これをダーウィンの名前つきの引用として章の初めにのせました。1985年には銀行業界の雑誌が、今の形に近い短い文をダーウィンの言葉として紹介しています。

ケンブリッジ大学の「ダーウィン書簡プロジェクト」は、ダーウィンの手紙を集めて研究しています。そのサイトは、この文を「ダーウィンが言っていない6つの言葉」の最初にあげています。説明には、この文はネット中にあふれ、石の床にまで刻まれているとあります。

9言っていない

「客に何が欲しいか聞いたら「もっと速い馬」と答えただろう」

言ったとされる人:ヘンリー・フォード

フォードが言った記録は見つかっていません。彼の名前と結びついた例で見つかっている最古のものは、亡くなって52年後の1999年、クルーズ船の業界誌です。

本当の出どころ
1999年夏の業界誌『クルーズ・インダストリー・ニュース・クォータリー』で、クルーズ船の設計者ジョン・マクニースが「もしフォードが人々に聞いて回ったら」というたとえ話として語った。フォードと結びついた例で見つかっている最古のもの。
なぜそう言える? 根拠を読む

名言の出どころを調べるサイトに「クオート・インベスティゲーター(QI)」があります。QIが、この言葉の記録をさかのぼりました。フォードと結びついたいちばん古い例は1999年です。クルーズ船の設計者が、業界誌の記事でこう話しました。「もしフォードが人々に聞いて回ったら、欲しいのは速い馬だと言われただろう」。フォード本人の言葉ではなく、設計者のたとえ話でした。

フォードが言ったという形で出たのは、2001年にイギリスのマーケティング業界誌にのった読者の手紙が、QIの見つけた中では最初です。フォードは1947年に亡くなっています。2006年には、ひ孫のビル・フォードまでが、この言葉をひいおじいさんのものとして使いました。

ハーバード・ビジネス・レビューの2011年の記事も、フォードが言った証拠はないと書いています。記事によると、フォードの会社は1921年に、アメリカで作られた車の約3分の2を売っていました。ところがT型の設計を変えずにいるうちに、客の好みの変化に遅れました。工場を止めて新しいA型に切りかえた1927年には、約15%まで落ちています。

10元は別の形

「ハングリーであれ、愚か者であれ」

言ったとされる人:スティーブ・ジョブズ

2005年の大学の卒業式でジョブズが確かに言いましたが、自分で作った言葉ではありません。1974年に出た本の裏表紙の言葉を、出どころを話したうえで引用しました。

本当の出どころ
1974年10月に出た『ホール・アース・エピローグ』の裏表紙に印刷された言葉。ジョブズはそれをスピーチで引用した。
なぜそう言える? 根拠を読む

ジョブズは2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式でスピーチをしました。大学が公開しているスピーチ原稿では、最後の部分に「Stay hungry. Stay foolish.」が3回出てきます。

出どころは、ジョブズ自身がその場で説明しています。若いころに読んだ『ホール・アース・カタログ』という本で、ジョブズの世代の「聖書」の一つだったそうです。その最終号の裏表紙に、早朝のいなか道の写真があり、その下にこの言葉がありました。作り手たちの「別れのあいさつ」だった、とジョブズは話しています。

ジョブズによると、このカタログは「紙の本のグーグル」のようなものでした。グーグルが生まれる35年前のことです。ジョブズの言う最終号にあたるのは、1974年10月に出た『ホール・アース・エピローグ』です。この本はインターネット・アーカイブで公開されています。最後のページの、裏表紙の説明のそばに、この2文が印刷されています。

11元は別の形

「運命はこのように扉をたたく」

言ったとされる人:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(交響曲第5番について)

この言葉を伝えているのは、秘書だったシンドラーが本人の死から13年後に出した伝記です。シンドラーは記録の書きかえで知られ、作り話だった可能性が高いとされています。

本当の出どころ
1840年に出たアントン・シンドラーの『ベートーヴェン伝』に、本人がシンドラーに熱く語った言葉として書かれたのが最初。
なぜそう言える? 根拠を読む

この言葉が出てくるのは、アントン・シンドラーが1840年に出した『ベートーヴェン伝』です。第5番の冒頭について、ベートーヴェンが熱をこめて「こうして運命が扉をたたく」と自分に語った、と書かれています。交響曲の初演は1808年で、ベートーヴェンは1827年に亡くなりました。本が出たのは、その13年後です。

シンドラーはベートーヴェンの秘書でした。耳が聞こえにくくなったベートーヴェンは、来客とノートに書いてやりとりしていました。ボンのベートーヴェン・ハウスの説明では、シンドラーは死後にこの「会話帳」を手に入れました。そして、書きこみを書きかえたり、取りのぞいたりしました。自分の役割を大きく見せるためだったとされています。

楽譜の出版社ヘンレは、第5番の楽譜の解説で、作曲の資料に「運命」を示すものは何もないと書いています。このたとえは「おそらくシンドラーの作り話」で、「運命交響曲」というあだ名のもとになった、という見方です。本人が言ったかどうかは、今も確かめられません。

12元は別の形

「ヒューストン、問題が発生した」

言ったとされる人:アポロ13号のジム・ラヴェル船長

実際の交信は「ヒューストン、問題が起きた」で、最初に言ったのはラヴェル船長ではなくスワイガート飛行士でした。よく知られた形は映画のせりふです。

本当の出どころ
1970年4月、アポロ13号の交信記録。最初にスワイガートが「よし、ヒューストン、問題が起きた」と言い、管制室に聞き返されてラヴェルがくり返した。
なぜそう言える? 根拠を読む

1970年4月、アポロ13号は月へ向かう3日目に、機体全体にひびくにぶい音を聞きました。NASAの記録では、飛行を始めてから55時間55分4秒のことです。すぐに、電圧が下がったことを知らせる警告ランプがつきました。

その約15秒後、最初に無線で知らせたのは、司令船の操縦士ジャック・スワイガートです。「よし、ヒューストン、問題が起きた」。管制室が「もう一度言ってくれ」と聞き返すと、船長のジム・ラヴェルが同じ言葉で答えました。

英語の原文は「問題が起きてしまった(we've had a problem)」です。トム・ハンクス主演の映画『アポロ13』では「問題がある」という形になりました。交信記録に解説をつけた「アポロ飛行記録」によると、映画の脚本家は、観客が知っている言い回しを使うしかなかったと認めています。

スワイガートは、もとは控えの乗組員でした。本来の操縦士マッティングリーと入れかわって、この飛行に加わっていました。

13言っていない

「初歩的なことだよ、ワトソン君」

言ったとされる人:シャーロック・ホームズ(作者コナン・ドイル)

ドイルが書いた60編のホームズ物語に、この形のせりふはありません。「初歩的だ」と「ワトソン君」は別々に出てきて、つないだのは新聞や読者でした。

本当の出どころ
二つをつないだ完全に同じ形で見つかっている最古の例は、1908年にロンドンの新聞『グローブ』にのった記事。映画では1929年の『シャーロック・ホームズの帰還』の最後のせりふになった。
なぜそう言える? 根拠を読む

ドイルのホームズ物語は、短編56編と長編4編の合わせて60編です。その中に「Elementary, my dear Watson」という一続きのせりふはありません。ただし、とても近い場面があります。

1893年の短編「背中の曲がった男」で、ホームズはワトソンの靴を見て、仕事で忙しいことを見ぬきます。そのとき、まず「君の習慣を知っているからだよ、ワトソン君」と言います。ワトソンが「すばらしい!」と叫ぶと、ホームズは「初歩的なことさ」と答えます。二つの言葉は、わずか数行しか離れていません。

二つをつないだ完全な形で、見つかっている中でいちばん古いのは、1908年のロンドンの新聞『グローブ』の記事です。1909年にはアメリカの新聞が「ホームズがいつも言っていたように」と書いて使いました。1929年、声の入った初めてのホームズ映画『シャーロック・ホームズの帰還』では、最後のせりふになっています。

14言っていない

「私はあなたの意見に反対だが、それを言う権利は命をかけて守る」

言ったとされる人:ヴォルテール(18世紀フランスの思想家)

ヴォルテールの言葉ではありません。1906年にイギリスの作家ホールが、ヴォルテールの「態度」を説明するために自分で書いた文です。

本当の出どころ
1906年、イヴリン・ビアトリス・ホールがS・G・タレンタイアという筆名で出した伝記『ヴォルテールの友人たち』199ページの一文。
なぜそう言える? 根拠を読む

この文が初めて出てくるのは、1906年にロンドンで出た伝記『ヴォルテールの友人たち』です。書いたのはイギリスの作家イヴリン・ビアトリス・ホールで、S・G・タレンタイアという筆名で出しました。

本の中の場面はこうです。哲学者エルヴェシウスの本『精神について』が、パリの裁判所などから悪い本だと決めつけられ、人前で焼かれました。ヴォルテールはそれを聞いて「オムレツ1つで何という騒ぎだ」と言った、と書かれています。そのあとにホールは「私はあなたの意見に反対だが……」と書きました。かぎかっこを付けて、ヴォルテールの「このときの態度」として示したのです。

そのため、読んだ人はヴォルテール本人の言葉だと受け取りました。ホールは1919年の別の本にも、ほぼ同じ文を書いています。その文について、ホールは1939年5月9日の手紙でこう書きました。「これは私自身の表現で、かぎかっこに入れるべきではなかった」。この手紙は1943年、アメリカの学術誌で紹介されました。記事の題は「ヴォルテールはそんなことを言っていない!」です。

15言っていない

「それでも地球は動く」

言ったとされる人:ガリレオ・ガリレイ

ガリレオが言ったという、本人が生きていたころの記録はありません。活字のいちばん古い記録は、死後115年たった1757年にロンドンで出た本です。

本当の出どころ
1757年、イタリア出身の文筆家ジュゼッペ・バレッティがロンドンで出した英語の本『イタリアン・ライブラリー』52ページの話。
なぜそう言える? 根拠を読む

ガリレオは1633年、ローマの宗教裁判で有罪になりました。地動説を捨てると誓わされ、判決は一生の監禁でした。実際には、家から出られない軟禁として行われました。ガリレオは1642年1月8日、フィレンツェ近くの家で亡くなっています。

「それでも動く」の話が初めて活字になったのは、1757年です。イタリア出身の文筆家バレッティが、ロンドンで出した英語の本に書きました。本によると、ガリレオは自由の身になった瞬間に、空と地面を見ました。そして足をふみ鳴らし、「エップル・シ・ムオーヴェ(それでも動く)」と言った、という話です。同じ文には「6年間とらえられ、拷問された」ともあります。天文学者マリオ・リヴィオは、この話には史実でない作り話がまじっていると指摘しています。

1911年、ベルギーの人が、この言葉の入った絵を持っていると名乗り出ました。その人は、絵が1643年か1645年にかかれたものだと主張しました。そのため、ガリレオが本当に言った証拠だと考える学者も出ました。リヴィオは、この絵が2007年の競売で売られていたことを突き止め、2020年に発表しました。競売会社の見立ては19世紀の絵で、年も署名も見つかっていません。

16元は別の形

「ブルータス、お前もか」

言ったとされる人:ユリウス・カエサル

古代の記録にあるのは、ギリシャ語の「子よ、お前もか」です。しかも伝記作家スエトニウスは、そう書く人もいると添えただけで、自分はカエサルはうめいただけと書いています。

本当の出どころ
ラテン語の「エト・トゥ・ブルーテ」は、1595年に出版されたイギリスの劇『ヨーク公リチャードの真の悲劇』が今のところ最古の記録。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』で有名になった。
なぜそう言える? 根拠を読む

ローマの伝記作家スエトニウスによると、カエサルは23か所を刺されました。最初の一撃でうめき声を上げただけで、言葉は出さなかったと書いています。そのうえで、こう添えています。「ブルータスが襲いかかったとき、カエサルはギリシャ語で『子よ、お前もか』と言ったと書く人もいる」。

ギリシャ人の伝記作家プルタルコスは、別の話を伝えています。カエサルは、ブルータスが短剣を抜いたのを見ると、服を頭からかぶって倒れた、という話です。どちらの記録にも、ラテン語の「エト・トゥ・ブルーテ」は出てきません。

英ダラム大学の古典学者ジオガスは、2016年の論文でカエサルの最後の言葉を調べました。「エト・トゥ・ブルーテ」の最古の記録は、1595年に出版された劇です。そこでは「エト・トゥ・ブルーテ、お前もカエサルを刺すのか」と叫ばれます。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』では「エト・トゥ・ブルーテ? ならば倒れよ、カエサル」です。ジオガスは、ギリシャ語の「子よ、お前も」を、「子よ、お前も死ぬのだ」という予言だと読んでいます。

17元は別の形

「賽は投げられた」

言ったとされる人:ユリウス・カエサル

カエサルがルビコン川を渡るときの言葉として古代の伝記に出てきます。ただし記録によって違い、プルタルコスは「ギリシャ語で『賽を投げよ』と叫んだ」と書いています。

本当の出どころ
スエトニウス『カエサル伝』32章はラテン語の「イアクタ・アレア・エスト(賽は投げられた)」。プルタルコスはギリシャ語の「賽を投げよ」と書いている。
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ルビコン川は、カエサルが治めることをまかされた土地(属州)の境の川でした。プルタルコスによると、カエサルは川の手前で長く迷いました。軍を連れて渡れば、多くの人に大きな災いがおよぶと考えたからです。

スエトニウスの伝記では、迷うカエサルの前に、葦の笛を吹く大きく美しい人が現れます。その人は兵士のラッパを奪い、戦いの合図を吹き鳴らして向こう岸へ渡りました。カエサルは「神々のしるしが呼ぶ方へ行こう。賽は投げられた」と言った、とあります。

プルタルコスは、同じ場面を2つの伝記に書いています。『ポンペイウス伝』では、カエサルはまわりの人にギリシャ語で「賽を投げよ」とだけ叫び、軍を渡らせました。『カエサル伝』では、これを「思い切った賭けに出る人がよく口にする文句」と説明しています。日本で知られる「投げられた」の形は、スエトニウスのラテン語のほうです。

18本人の言葉

「私が遠くを見られたのは、巨人の肩の上に立っていたからだ」

言ったとされる人:アイザック・ニュートン

ニュートン本人が手紙に書いた言葉です。ただし、このたとえはニュートンの発明ではありません。500年以上前の12世紀に、フランスの学者の言葉として記録されています。

本当の出どころ
1676年2月5日(当時のイギリスの暦では1675年)、ニュートンがロバート・フックにあてた手紙の一文。
なぜそう言える? 根拠を読む

この文は、ニュートンが王立協会の先輩ロバート・フックにあてた手紙にあります。日付は2月5日です。年は、当時のイギリスの暦では1675年、今の数え方では1676年です。英語の原文は「私がより遠くを見たとすれば、それは巨人たちの肩に立っているからだ」です。

手紙は、2人が光の理論をめぐって争った直後に書かれました。米リンダ・ホール図書館の科学史家が、そのいきさつを紹介しています。王立協会の1月20日の会合で、フックは抗議しました。ニュートンの話は全部、自分の1665年の本『ミクログラフィア』にある、というのです。手紙はフックをほめる内容ですが、フックが受け取ったかどうかは分かっていません。

たとえの元は12世紀にあります。イギリスの学者ソールズベリーのジョンが、1159年までに書いた『メタロギコン』です。ジョンはそこに、フランスのシャルトルの学者ベルナールの口ぐせを記録しました。「私たちは巨人の肩に座った小人のようなもので、だから巨人より多く、遠くまで見える」という内容です。ニュートンの文では「小人」が消えています。

19元は別の形

「余の辞書に不可能という文字はない」

言ったとされる人:ナポレオン・ボナパルト

ナポレオン自身の手紙に残る近い言葉は、1813年の「できないと書いてきたが、それはフランス的ではない」です。辞書の話は出てこず、馬のえさを送れという命令の手紙でした。

本当の出どころ
確かめられるいちばん近い言葉は、1813年7月9日、ドレスデンからマクデブルクの守備隊長ルマロワ将軍にあてた手紙の「それはフランス的ではない」(『ナポレオン1世書簡集』第25巻、20256番)。
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ナポレオン3世の命令で作られた『ナポレオン1世書簡集』の第25巻(1868年)に、この手紙がのっています。1813年7月9日、ドレスデンから、マクデブルクの守備隊長ルマロワ将軍にあてたものです。将軍からは7月6日に、「それはできない」と書いた手紙が届いていました。

ナポレオンの返事はこうです。「そちらにはえん麦が24万ボワソー(昔の量の単位)ある。『それはできない』と君は書いてくる。それはフランス的ではない。だから君の手紙は気に入らない」。続けて、近衛隊の馬が死にかけているので、えん麦を積んだ船を2そう、すぐに出せと命じています。手紙に「辞書」は出てきません。

日本で広まった「余の辞書に不可能の文字はない」の形については、2005年に埼玉県立久喜図書館が出典を調べました。名言辞典などを調べても出典は確定できなかったと答えています。紹介された説は「1800年のアルプス越えのときの言葉」など4つでした。その中には「不可能という語はフランス語ではない、と言った」という説もあり、この手紙の言葉に近い形です。

20元は別の形

「知は力なり」

言ったとされる人:フランシス・ベーコン(イギリスの哲学者)

「知識そのものが力だ」という文は、1597年のベーコンの本にあります。ただし神の力を論じた文の中の、かっこ書きの一言でした。人間の知識と力を結びつけた文は、別の本にあります。

本当の出どころ
1597年、ベーコンがラテン語で書いた『聖なる瞑想』の「異端について」の章に、「(なぜなら知識そのものが力だから)」とかっこ書きで出てくる。
なぜそう言える? 根拠を読む

この言葉が出てくるのは、ベーコンが1597年に出した『聖なる瞑想』です。ラテン語で書かれ、有名な『随筆集』と同じ1冊にまとめて出版されました。問題の文は「異端について」という章にあります。キリスト教の誤った教えを取り上げた章です。

文の中身はこうです。ある人々は、神は先のことを知っていても、動かさずに見ているだけのことがあると考えている。そういう人は、神の力のうち「知る部分」を「働く部分」より広く見ている。この説明の途中に「(なぜなら知識そのものが力だから)」というかっこ書きが入ります。ラテン語では scientia potestas est です。よく引かれる scientia potentia est とは、1語違います。

人間の知識と力を結びつける考えは、ベーコンの中心の考えでした。スタンフォード哲学百科事典によると、ベーコンは1590年代の初めに、知識を「いちばん価値のある力」と呼んでいます。1620年の『ノヴム・オルガヌム』では「人間の知識と人間の力は同じところに行き着く」と書きました。知識がもたらす力を、それまでの人々は軽く見すぎていた、とベーコンは考えていました。

21本人の言葉

「我思う、ゆえに我あり」

言ったとされる人:ルネ・デカルト(フランスの哲学者)

デカルト本人の言葉です。ただし最初はラテン語ではなくフランス語で、1637年に作者名をのせずに出した『方法序説』の「私は考える、だから私はある」が最初の形です。

本当の出どころ
1637年、オランダのライデンで出版された『方法序説』第4部の「je pense, donc je suis」。
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デカルトは1637年、『方法序説』をオランダのライデンで出版しました。フランス語で書き、作者の名前はのせませんでした。第4部では、すべてを疑ってもなお疑えないものを探します。そして「je pense, donc je suis(私は考える、だから私はある)」と書きました。

フランス語で書いた理由は、本の終わりにあります。デカルトによると、ラテン語は「先生たちの言葉」で、フランス語は「自分の国の言葉」です。生まれつきの理性だけを使う人に読んでほしい、とデカルトは書きます。そういう人のほうが、古い本しか信じない人より正しく判断してくれると考えたのです。

ラテン語の形「コギト・エルゴ・スム」は、1641年の主著『省察』の本文には出てきません。スタンフォード哲学百科事典によると、『省察』では「私はある、私は存在する」と書かれています。ラテン語の短い形は、『省察』と一緒に出した、ほかの学者からの反論への答えなどで使われました。

22元は別の形

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

言ったとされる人:福沢諭吉

福沢諭吉が書いた文ですが、最後に「と云へり(と言われている)」を付けて、人の言葉として紹介しています。しかも「でも現実には差がある。それは学ぶかどうかの差だ」と続きます。

本当の出どころ
1872年(明治5年)に出た『学問のすゝめ』初編の書き出し。福沢は「と云へり」と、引用の形で書いている。
なぜそう言える? 根拠を読む

『学問のすゝめ』の初編は1872年(明治5年)に出ました。そのあと1876年11月までに、全部で17冊の小冊子として出ています。慶應義塾によると、福沢自身の見積もりでは、初編だけで、にせの版も合わせて22万冊が出たそうです。

書き出しは「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」です。最後の「云へり」は「と言われている」という意味で、だれかの言葉を紹介する書き方です。元はアメリカ独立宣言の「すべての人は平等に造られている」だ、という見方があり、慶應義塾の記事も紹介しています。埼玉県立久喜図書館も1993年、名言辞典をもとに、福沢が独立宣言から取ったと答えています。

文はそこで終わりません。福沢は続けて、今の世の中を見わたすと、かしこい人もおろかな人も、貧しい人も金持ちもいると書きます。そして、江戸時代に寺子屋の教科書として使われた『実語教』の言葉を引きます。結論は「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」です。かしこい人とおろかな人の違いは、学ぶか学ばないかで生まれる、という意味です。

23言っていない

「少年よ大志を抱け。金や私欲や名声のためではなく」

言ったとされる人:ウィリアム・S・クラーク(札幌農学校の初代教頭)

「Boys, be ambitious」の後ろの長い続きは、クラークが言った記録がありません。初めて出てくるのは37年後に作られた英語の学校史で、北海道大学は筆者の英語教師の解釈と見ています。

本当の出どころ
長い続きは、1915年のサンフランシスコ万国博覧会に向けて作られた英文の学校史『東北帝国大学農科大学略史』(1914年12月1日付)に初めて出る。北海道大学は、筆者ポール・ローランドがクラークの言葉を解釈したものと見ている。
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北海道大学によると、クラークがこの言葉を言ったのは1877年(明治10年)4月16日です。帰国するクラークを、学生たちが札幌近くの島松まで見送りました。第1期生の大島正健は、クラークが馬の上から最後にこの一言を言ったと書いています。北大図書館の解説は、多くの学生が聞き取れたかは疑わしいとしています。この言葉が文字になったいちばん古い記録は、1894年(明治27年)の学生の雑誌です。そこでは「この老人のように」が付いた形でした。

「金や私欲のためではなく、名声のためでもなく」と続く長い英文は、出どころが別です。初めて出てくるのは、1915年の万国博覧会に向けて作られた英語の学校史です。北海道大学は、筆者で英語教師のポール・ローランドが、クラークの言葉を解釈して書いたものと見ています。この長い文は、1964年3月16日の朝日新聞「天声人語」で紹介されて広まりました。

北大図書館の解説は、この続きをクラークの言葉と認めるには無理がありそうだとしています。理由の1つは、クラーク自身がお金や名声を低く見ていなかったことです。札幌農学校の開校式の演説で、クラークは学生たちに「相応の資産と不朽の名声」を得るよう呼びかけていました。

24本人の言葉

「日本を今一度せんたくいたし申候」

言ったとされる人:坂本龍馬

龍馬本人が書いた言葉です。1863年に姉の乙女にあてた手紙が今も残っていて、国の重要文化財として京都国立博物館にあります。

本当の出どころ
文久3年6月29日(1863年)、姉の坂本乙女にあてた手紙(重要文化財、京都国立博物館蔵)。
なぜそう言える? 根拠を読む

この手紙は、龍馬が勝海舟の弟子だったころに書かれました。龍馬は、神戸の海軍操練所づくりを手伝っていました。手紙を書く前の月、長州藩は関門海峡を通る外国の船を砲撃しました。ところが幕府は、そのとき傷ついた外国の船を江戸で修理していました。

龍馬はこれに怒りました。そして、そのような悪い役人を一気に打ち殺し、「日本を今一度せんたくいたし」と書きました。文化庁のサイト「文化遺産オンライン」の解説は、このあたりの文に、外国を打ち払う「攘夷」の考えが強く出ているとしています。

手紙の書き出しには、とても大事なことだから人にぺらぺら話すな、という注意があります。中ほどは、出家して山奥に入りたいとこぼした姉への返事です。龍馬は、お金なしで全国を旅する方法を長々と教えています。同じ解説によると、これは「やめておけ」という意味の冗談です。

一方、「これが日本の夜明けぜよ」は、龍馬の言葉としては見つかっていません。名古屋市鶴舞中央図書館が2021年に調べた結果です。同館は、映画のせりふか、この「せんたく」の文との混同ではないかとしています。

25元は別の形

「最大多数の最大幸福」

言ったとされる人:ジェレミー・ベンサム(イギリスの哲学者)

ベンサムも使いましたが、言い出したのはベンサムではありません。1725年に哲学者ハチソンが本に書いており、ベンサム自身は別の人の小冊子で見つけたと書き残しています。

本当の出どころ
1725年、フランシス・ハチソン『美と徳の観念の起源についての研究』の「最大多数のために最大の幸福をもたらす行為が最善」という一文が最初。
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スタンフォード哲学百科事典によると、この言い回しを最初に使ったのはフランシス・ハチソンです。ハチソンは1725年の本『美と徳の観念の起源についての研究』にこう書きました。「最大多数のために最大の幸福をもたらす行為が最善だ」。

ベンサムがこの言葉を使ったのは、1776年に出した『統治論断片』の序文です。作者名はのせていませんでした。文は「最大多数の最大幸福こそが、正しいか間違っているかを決める基準だ」です。

では、ベンサムはこの言葉にどこで出会ったのでしょうか。1891年にオックスフォードで出た『統治論断片』の解説に、答えがあります。ベンサムが出会ったのは、プリーストリーの1768年の小冊子でした。オックスフォードのコーヒー店の貸本で読み、心の中で「エウレカ(見つけた)」と叫んだと、ベンサムは後に書いています。

同じ解説によると、ベンサムは最後には、「最大多数の」を付けない「最大幸福の原理」という呼び方を好みました。

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