
チェスの試合の数は、宇宙の原子の数より多い
元の論文では、原子と比べていなかった。
この判定の対象「チェスの試合の数は、宇宙の原子の数より多い」
もくじ
「チェスの試合のパターンは、宇宙にある原子の数より多い」。よく聞く雑学です。そのとき、試合のパターンの数として、「10の120乗」という数がよく出てきます。1のあとに0が120個並ぶ数です。
この数字の出どころは、1950年に出た1本の論文です。書いたのは、アメリカのベル電話研究所にいたクロード・シャノン(Claude Shannon)です。
ところが、その論文を開いてみると、「原子」という言葉はどこにも出てきません。シャノンが比べたのは、原子ではなく時間でした。
この記事では、まず、シャノンの論文が何のための論文だったのかを紹介します。次に、「10の120乗」がどんな計算で出てきたのか、シャノンがそれを何と比べたのかを見ます。最後に、チェスの名人が、実際にはいくつの局面しか考えていなかったという話を紹介します。
01「10の120乗」が出てくる論文は、チェスを指す機械の作り方の論文
論文の題名は、「チェスを指すコンピュータのプログラミング」です。シャノンが最初にこの内容を発表したのは、1949年3月9日です。ニューヨークで開かれた、技術者の学会の大会でした。雑誌に載ったのは、1950年3月です。
シャノンは論文の最初で、チェスを指す機械の研究は、ほかの機械を作るのにも役立つと書きました。たとえば、言葉を翻訳する機械や、メロディーを編曲する機械です。電話の回線を、そのときどきの状況に合わせて割りふる機械も挙げています。
シャノンは、研究の題材にチェスを選んだ理由も書いています。
- ルールとゴール(チェックメイト)がはっきりしている。
- 簡単すぎず、難しすぎない。
- うまく指すには、「考えること」が必要だと思われている。
だから、チェスを指す機械ができれば、「機械は考えられるか」という問いの答えに近づける、というわけです。
02「10の120乗」は、指せる手の数と試合の長さから出した大まかな数
では、「10の120乗」という数は、どうやって出てきたのでしょう。論文の計算は、とても短いものです。
まず、チェスでは、1つの局面(盤の上の駒の並び)で指せる手が、だいたい30通りあります。この30という数は、研究者のデ・グロートが、名人たちの試合を調べて平均した数です。
白が1手、黒が1手指すと、30×30で、およそ1000通りになります。1000は、10の3乗です。そして、普通の試合は、どちらかが負けを認めるまでに、約40手で終わります。ここでの1手は、白と黒が1回ずつ指すことです。
1000を40回かけると、10の120乗になります。これが、シャノンの数字です。シャノン自身も、この数は、普通の長さの試合で考えた控えめな見積もりだと書いています。
03論文は、試合の数を原子の数と比べず、「全部調べると何年かかるか」を書いていた
シャノンは、「10の120乗」のすぐあとに、こう書きました。1マイクロ秒(100万分の1秒)に1つの進み方を調べる機械でも、最初の1手を決めるのに10の90乗年以上かかる。
宇宙ができてから今までは、約138億年です。これは、10の10乗年ほどです。10の90乗年は、それよりはるかに長い時間です。シャノンが言いたかったのは、「全部の手を読むのは、どんなに速い機械でも無理だ」ということでした。
実際に計算すると、10の120乗マイクロ秒は、約3×10の106乗年になります。だから、シャノンの「10の90乗年以上」は、とても控えめな書き方でした。
では、「宇宙の原子」との比較は、どこから来たのでしょう。論文には出てこないので、後の時代に、だれかが分かりやすくするために付け足したものと考えられます。
04それでも、チェスの試合の数は宇宙の原子の数より多い
原子との比較があとから付け加えられたものでも、その比較が正しいかどうかは、別の話です。宇宙の原子の数を、自分で見積もってみましょう。
NASAの宇宙探査機WMAPの解説によると、宇宙にある原子を宇宙全体に平らにならすと、4立方メートルに陽子1個分しかありません。陽子は、原子の中にある小さな粒です。宇宙は、とてもスカスカなのです。
一方、私たちが観測できる宇宙の果ては、今は約460億光年先にあると計算されています。半径460億光年の球の体積を、4立方メートルで割ると、約9×10の79乗になります。ほぼ10の80乗です。
10の120乗は、10の80乗の「10の40乗倍」です。宇宙の原子1個1個を、さらに10の40乗個ずつに増やして、やっと届く数です。

05チェスの名人は、1手を決めるのに、盤面を44通りしか考えていなかった
シャノンの論文には、もう1つ大事な話が書かれています。人間の名人は、全部の手を読んではいない、ということです。
デ・グロートは、名人にチェスの局面を見せ、考えていることを声に出して話してもらう実験をしました。ある名人が、いちばんよい手を決めるまでに考えた手順は、16通りでした。考えた局面は、全部で44でした。
試合の進み方は10の120乗通りもあるのに、名人は44の局面しか考えていません。この大きな差を見て、シャノンは、チェスを指す機械の作り方を2つに分けました。
- タイプA:全部の手を、同じ深さ(何手先まで)まで調べる。
- タイプB:大事な手だけを選んで、深く読む。
シャノンは、名人のように指す機械を作るなら、タイプBが必要だと考えました。
論文の注には、ちょっとした話も書かれています。でたらめに指して名人ボトヴィニクに勝つ確率は、10のマイナス75乗くらいだそうです。それでも、でたらめより悪い指し方もある、とシャノンは書いています。その例として、たった2手で負ける試合の手順まで書いています。
深掘り講義
ここから先は、もう一段深く。しくみ・史料・論争まで踏み込みます。
チェスが「何通りあるか」は、試合の流れで数えるか、盤の駒の並びで数えるかで大きく変わる
チェスの「数の大きさ」には、少なくとも2種類あります。
- 試合の数:最初から最後まで、手の順番が違えば別の試合と数える
- 局面の数:盤の上の駒の並びが同じなら、どの順番でそこに来ても1つと数える
シャノンの10の120乗は、試合の数を大まかに見積もったものです。同じ論文で、シャノンは局面の数も見積もりました。64のマスに駒を並べる式を使って、およそ10の43乗としています。この式を実際に計算すると、約4.6×10の42乗になります。
2015年、数学者のシュタイナーベルガー(Stefan Steinerberger)は、局面の数は普通10の40乗〜10の50乗と見積もられていると書きました。そのうえで、ある条件の局面に限れば、局面の数は2×10の40乗以下だと示しました。その条件とは、ポーンが別の駒に「成る」(相手側のいちばん奥まで進んで、別の駒に変わる)ことがない、というものです。つまり、局面の数だけなら、宇宙の原子(約10の80乗)よりずっと少ないのです。
チェスの試合の数をコンピュータで正確に数えられるのは、最初の数手だけ
最初の数手なら、コンピュータで試合の数を正確に数えられます。ここでは、白か黒のどちらかが1回指すごとに数えます。白が1回指したところまでで、20通りです。続けて黒が1回指すと400通り、白の2回目まで進むと8902通りです。
白と黒が5回ずつ、合わせて10回指したところまでで、69兆3528億5971万2417通りになります。合わせて15回までなら、約2×10の21乗通りです。たった15回指しただけで、もう10の21乗通りになるのです。
1回指すごとに約30倍に増えるという見積もりは、序盤(試合の始めのほう)の数字とも、だいたい合っています。この増え方が白黒40回ずつ続けば、10の120乗ほどの大きさになるのも不思議ではありません。
シャノンは、機械が大事な手だけを選んで先を読む方法を考えた
シャノンの論文で大切なのは、数字の大きさではありません。「全部の手を読むのは無理だから、読む手をどう選ぶか」という問題を、はっきり書いたことです。
論文は、局面のよさを点数で表す式(評価関数)を提案しました。駒の価値、ポーンの並び方、駒の動きやすさなどを点数にして、足し合わせる式です。駒の価値は、クイーン9、ルーク5、ビショップとナイト3、ポーン1です。今もチェスの入門書でよく見る数字が、そのまま式に入っています。
そして、王手や駒を取る手のような「強い手」を優先して、深く読むことも提案しました。読む手を減らして、大事な手だけを深く読む。シャノンは、名人のやり方を、機械の手順に置きかえようとしたのです。
「宇宙の原子より多い」とだけ言うと、「全部は調べられないから手を選ぶしかない」という論文の大事な話が伝わらない
「宇宙の原子より多い」というたとえは、分かりやすい一方で、もとの論文の言いたいこととずれています。シャノンが言いたかったのは、「全部を計算しようとすると終わらない」ということでした。
原子と比べるたとえでは、「数が多い」という話で止まってしまいます。そして、「だから機械は、手を選んで読むしかない」という、論文でいちばん大切な話が抜け落ちてしまいます。
シャノンの数字そのものも、大まかな見積もりです。「1つの局面で30通り」「1試合40手」という2つの平均を使っただけで、正確に数えた値ではありません。シャノン自身も、試合を、負けを認める(投了する)ところまでではなく、チェックメイトまで続けるなら、数はもっと大きくなると書いています。
数字を引用するときは、もとの文が何と比べていて、何を言いたかったのかまで確かめましょう。そうすれば、大きな数を正しく使えます。
06まとめ
「チェスの試合は宇宙の原子より多い」は、数としてはホントです。シャノンが見積もった10の120乗は、宇宙の原子(この記事の計算で約10の80乗)よりはるかに大きな数です。
ただ、シャノンの論文は、原子と比べてはいません。書かれていたのは、「1手目を決めるのに10の90乗年以上かかる」という時間の話です。そして、名人が44の局面だけを考えて1手を決めていた、という実験の話でした。
論文の注には、白がたった2手で負ける手順も書かれています。f3やg4は、盤のマスの名前です。白が1手目でポーンをf3に、2手目で別のポーンをg4に進めます。黒は1手目でe5と指したあと、2手目でクイーンをh4に動かすだけでチェックメイトです。
人に話すなら、こう言おう
チェスの試合の数が「宇宙の原子より多い」って話、もとは1950年の論文なんだって。でもその論文、原子とは比べてなくて、「全部調べたら1手目に10の90乗年かかる」って書いてるらしいよ。
英語で読む
More Chess Games Than Atoms?
英文をタップすると、その文の訳が出ます。
You may have heard that there are more possible chess games than atoms in the universe.チェスの試合のパターンは宇宙の原子より多い、と聞いたことがあるかもしれません。 The famous number is 10 to the power of 120.有名な数字は10の120乗です。 It comes from a paper by Claude Shannon, a scientist at Bell Telephone Laboratories.それは、ベル電話研究所の科学者クロード・シャノンの論文から来ています。 The paper came out in 1950.その論文は1950年に出ました。
Shannon wanted to teach a computer to play chess.シャノンはコンピュータにチェスを指させたいと考えていました。 His math was simple.彼の計算は簡単なものでした。 In a normal position, a player can choose from about 30 moves.ふつうの局面では、指す人は約30の手から選べます。 One move by White and one by Black gives about 1,000 choices.白が1手、黒が1手指すと、約1000通りになります。 A typical game lasts about 40 moves, so he got 10 to the power of 120.ふつうの試合は約40手続くので、彼は10の120乗という数を出しました。
But Shannon's paper never mentions atoms.でもシャノンの論文には、原子のことは一度も出てきません。 He compared the number with time.彼はその数を時間と比べました。 Think of a machine that checks one line of moves every microsecond.1マイクロ秒ごとに1つの手順を調べる機械を考えてみましょう。 It would need over 10 to the power of 90 years for its first move.その機械でも、最初の1手に10の90乗年以上かかるのです。 The universe is only about 13.8 billion years old.宇宙はまだ約138億歳にすぎません。
Still, the atom story is true.それでも、原子の話は本当です。 With NASA data, we can estimate the atoms in the part of the universe we can see.NASAのデータを使うと、私たちに見える範囲の宇宙の原子の数を見積もれます。 There are about 10 to the power of 80.約10の80乗個です。 That is far smaller than Shannon's number.それはシャノンの数よりずっと小さい数です。
Shannon also described an experiment with a chess master.シャノンは、チェスの名人を使った実験のことも書きました。 To choose one move, the master looked at only 44 positions.1手を選ぶのに、その名人はたった44の局面しか見ませんでした。 So Shannon said a good machine should not check every move.そこでシャノンは、よい機械はすべての手を調べるべきではないと言いました。 Like a human, it should choose the important ones and think deeply about them.人間のように、大事な手を選んで、それを深く考えるべきだというのです。
4択問題 Reading Quiz
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Q1What is this story mainly about?
この話は主に何についてのものですか。
正解:B Where a famous chess number came from
第1段落で10の120乗がシャノンの論文から来たと述べ、その後の段落で計算のしかたや論文の中身を説明しているので正解はB。Dの名人は第5段落に少し出るだけ。
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Q2About how many moves does a typical game last, according to Shannon?
シャノンによると、ふつうの試合は約何手続きますか。
正解:D 40 moves
第2段落5文目に「ふつうの試合は約40手続く」とあるので正解はD。Aの30は1つの局面で選べる手の数、Bの44は名人が見た局面の数。
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Q3What did Shannon compare his number with?
シャノンは自分の数を何と比べましたか。
正解:A The time a machine would need
第3段落1〜3文目に、シャノンの論文には原子が出てこず、時間と比べたとあるので正解はA。Bの原子は、論文には出てこない。
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Q4In paragraph 3, the word "compared" is closest in meaning to
第3段落の "compared" に最も意味が近いのはどれですか。
正解:B put it next to, to see the difference
第3段落2文目で、シャノンは大きな数を「時間」と並べてちがいを示しているので、compare は「比べる」の意味で正解はB。Aの「足す」は add。
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Q5Which is true about the story?
この話について正しいのはどれですか。
正解:C There are more possible chess games than atoms we can see.
第4段落に、原子の話は本当で、約10の80乗個はシャノンの数よりずっと小さいとあるので正解はC。Aは第3段落で論文に原子は出てこないとあり、Bは第5段落で44の局面しか見なかったとあり、Dは宇宙は約138億歳なので誤り。
重要語 Key Words(タップで裏返る)
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possible形容詞ありうる、可能な
Is it possible to finish this by Friday?
これを金曜までに終わらせることはできますか。
💡 反対語は impossible(不可能な)。
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atom名詞原子
Water is made of hydrogen and oxygen atoms.
水は水素と酸素の原子でできている。
💡 ギリシャ語の「これ以上分けられないもの」から。形容詞は atomic。
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universe名詞宇宙
The universe is very old.
宇宙はとても古い。
💡 uni-(ひとつ)+ verse(回る)。university と同じ uni-。
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paper名詞論文
She wrote a paper about birds.
彼女は鳥についての論文を書いた。
💡 「紙」のほかに「論文」「新聞」の意味もある。
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typical形容詞ふつうの、典型的な
A typical school day starts at eight.
ふつうの学校の日は8時に始まる。
💡 type(型)から。「よくある型どおりの」という感じ。
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compare動詞比べる
Compare the two pictures and find the difference.
2枚の絵を比べて、ちがいを見つけなさい。
💡 compare A with B で「AをBと比べる」。
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estimate動詞見積もる、おおよそ計算する
We estimate the trip will take three hours.
旅は3時間かかると見積もっている。
💡 名詞も同じつづりで「見積もり」。発音は動詞が「エスティメイト」。
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experiment名詞実験
We did an experiment with ice and salt.
氷と塩を使って実験をした。
💡 do an experiment で「実験をする」。
SOURCES出典・ウラ取り
この記事の事実は、次の資料を実際に開いて確認しています(確認した事実 18件)。
- Shannon, C. E. (1950) Programming a Computer for Playing Chess, Philosophical Magazine 41(314)doi.org
- Programming a Computer for Playing Chess(Computer History Museum 所蔵の論文 PDF)computerhistory.org
- A048987 Number of possible chess games at the end of the n-th ply(OEIS)oeis.org
- Steinerberger, S. (2015) On the number of positions in chess without promotion, International Journal of Game Theory 44doi.org
- Davis, T. M. & Lineweaver, C. H. (2004) Expanding Confusion: Common Misconceptions of Cosmological Horizons and the Superluminal Expansion of the Universe, Publications of the Astronomical Society of Australia 21doi.org
- What is the Universe Made Of?(NASA WMAP, アーカイブ)web.archive.org
公式ページで見てみよう
- Mastering the Game: A History of Computer Chess(Computer History Museum)computerhistory.org
文章はすべて資料をもとに独自の言葉で書いています。画像はオリジナルのイメージです。誤りにお気づきの方は訂正窓口へ。
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